เข้าสู่ระบบ正臣様が帰られた翌朝、総帥室にはいつもと違う緊張が漂っていた。
帝人さんは朝一番から、海外事業部との会議に入っている。
議題は東南アジアにある港湾物流会社の買収だった。
成長が見込める地域に新たな拠点を持つことで、皇グループの物流網を大きく広げられる。計画だけを見れば魅力的だけれど、現地企業の労働環境と土地利用をめぐる調査が終わっていないらしい。
帝人さんは追加資料が揃うまで決裁しないと伝えていた。
会議は予定より十五分長引いた。
扉が開くと、役員たちが硬い表情で出てくる。帝人さんの結論は変わらなかったのだろう。
「倉橋さん。少しよろしいですか」
最後に退室した男性から声をかけられた。
海外・新規事業部門を統括する堂島廉さん。
四十代前半。細身のスーツを隙なく着こなし、経済誌の取材にもよく登場する人だ。
「はい。どのようなご用件でしょうか」
「午後の買収案件について、総帥へ追加説明の時間をいただ
あの言葉を口にしてから、私はずっと後悔していた。『小春は特別じゃないと言えばいいのか』『それはそれで嫌です』 どうしてあんな返しをしたんだろう。 帝人さんの執務室へ戻ってからも、頭の中で何度も繰り返してしまう。 しかも。 帝人さんは聞き流してくれなかった。「小春」「はい」「さっきの話だが」「仕事に戻りましょう」「まだ何も言っていない」「分かります」「なら話が早い」「早くありません」 私は机の上に届いていた書類を持ち上げた。「十五時から経営企画部との打ち合わせです。その前に、この決裁をお願いします」「あと二十分ある」「二十分しかありません」「十分で終わる」「何がですか」「小春が、俺に特別ではないと言われるのは嫌だと言った理由を聞く」「十分で終わりません!」 思わず声が大きくなった。 帝人さんが少しだけ目を細める。「やはり理由があるんだな」「そういう誘導尋問やめてください」「誘導していない。小春が勝手に答えた」 その通りなので困る。「別に深い意味はありません」「それは信用しない」「どうしてですか」「小春は深い意味がない時、あんな顔をしない」「どんな顔ですか」「今と同じだ」 ますます困った。 私は書類を帝人さんの前へ置く。「ほら。これです」「誤魔化すな」「仕事です」「俺も仕事をする。その前に答えろ」「しません」「なぜだ」「答えがまとまってないからです」 口にしてから、また失敗したと思った。 帝人さんが黙る。「……まとまっていないだけで、何かは
応接室が静かになった。 私は帝人さんを見る。 帝人さんは数秒、久我さんを見たあと、ゆっくり口を開いた。「前提が間違っている」「どこがです?」「小春は俺の弱点じゃない」 迷いのない即答だった。「俺が小春の意見を聞くのは、小春に逆らえないからじゃない。小春が俺とは違うものを見ているからだ」 帝人さんはテーブルの上の資料へ手を置く。「俺が数字を見ている時に、小春は人を見ることがある。俺が個別の価値を切り分けた時、小春は全体を見ていることがある。逆もある。必要な判断材料が増えるなら、俺はそれを使う。それを弱さとは言わない」 翠嶺ホテルのことが頭に浮かんだ。 あの時もそうだった。 私が答えを出したわけではない。 ただ、帝人さんとは違うものを見ていただけだった。「ですが、感情は別でしょう」 久我さんが言う。「倉橋さんの意見が合理的だから聞く。それだけなら理解できます。ただ、皇社長が彼女を特別に扱っているのは、それだけではない」 私は居心地が悪くなった。 本人の前で話す内容じゃない気がする。 でも帝人さんは否定しなかった。「だから何だ」「仮に誰かが、倉橋さんを使えばあなたの判断を曲げられると考えたら?」「そいつは最初から失敗している」 帝人さんは即座に返した。「なぜ?」「小春は俺へ何かを通すために利用される人間じゃない。本人がまず断る」 私は瞬きをした。 前の交流会で、久我さんに言ったこと。 帝人さんはちゃんと覚えていたらしい。「小春が何かを言う時は、小春自身がそう思っている時だ。他人に頼まれたから俺を説得するようなことはしない」「随分信頼していますね」「ああ」 そこも即答する。「それでも、小春を交渉材料に使おうとする人間が出たら?」「俺
交流会から数日後。 久我さんの名前を、もう一度見ることになった。「帝人さん、久我さんから面談希望が来ています」 予定表を確認しながら伝えると、帝人さんが顔を上げた。「何の用だ」「企業再編案件について意見交換をしたい、とあります」「具体性がないな」「一時間ほしいそうです」「三十分でいい」「半分になりましたね」「案件もないのに一時間も必要ない」 いかにも帝人さんらしい。 私はそのまま予定を入れようとして、ふと手を止めた。「……私、同席します?」「当然だろう」「当然なんですか?」「小春が外れる理由があるのか」「いえ、ありませんけど」 久我さんは前回、明らかに私を観察していた。 帝人さんへの近道になるのか。 私が何か言えば、その判断が変わるのか。 冗談めかしてはいたけれど、何かを確かめようとしていたのは分かる。「気になるなら断るぞ」「え?」「久我に会うのが嫌なのかと思った」「違いますよ。そこまで警戒してません」「ならいい」 帝人さんはそれだけ言って、すぐ資料へ視線を戻した。 私が同席するかどうかを、最初から迷っていなかったらしい。 ◇◇◇◇ 三日後。 久我さんは約束の五分前に現れた。「先日はどうも」「こちらこそ」 応接室へ案内すると、久我さんは私を見て少し笑った。「今日は倉橋さんもご一緒ですか」「はい」「よかった」「何がです?」「皇社長と二人きりだと、三十分が十五分になりそうなので」 否定できない。「内容がなければ五分で終わる」 後ろから帝人さんの声がした。 久我さんが笑う。
交流会も終盤に差しかかり、人の流れが少しだけ落ち着いてきた。 帝人さんは金融機関の役員に声をかけられ、少し離れた場所で話をしている。 私はその間に、今日交換した名刺と予定を確認していた。「倉橋さん」 名前を呼ばれて顔を上げる。 先ほど何度かこちらを見ていた男性だった。「初めまして。久我征一郎と申します」 差し出された名刺を受け取る。「倉橋小春です」「存じています」 穏やかな笑顔。 帝人さんから聞いた名前と一致する。 企業再編を専門にしているコンサルタント。「皇グループとは、以前何度かお仕事をご一緒しました」「帝人さんから伺いました」「もう聞かれましたか」「久我さんのお名前だけですけど」 そう答えると、久我さんは少し笑った。「警戒されています?」「まだ何もされていないので、警戒する理由はありません」「では安心しました」 本当にそう思っているのかは分からない。「先ほどから拝見していましたが、倉橋さんは皇社長にかなり信頼されているんですね」 またその話だ。「仕事では、そうだと思います」「仕事では?」「私は秘書ですから」「でも皇社長は、秘書だからではないとおっしゃっていましたよ」 聞かれていたらしい。 私は困って少し笑った。「帝人さんは、思ったことをそのまま言う人なので」「なるほど」 久我さんの目が少しだけ細くなる。「では、倉橋さんの意見次第で皇社長の判断が変わることも?」 なんとなく。 質問の向きが変わった気がした。「ありますよ」 あえて否定しなかった。「たとえば?」「私の意見に帝人さんが納得した時です」 久我さんが少し黙る。
企業交流会は、その後も続いた。 帝人さんの周りから人が途切れることはほとんどない。 取引先。 金融機関。 関連会社。 以前一度だけ会った人もいれば、私は初めて見る人もいる。 帝人さんは相手によって態度を変えない。 必要な話は聞く。 必要のない話は長引かせない。 曖昧な提案には、その場で曖昧だと言う。 こういう場所では特に、帝人さんらしさがよく分かる。「皇社長」 次に声をかけてきたのは、五十代くらいの男性だった。「少しだけよろしいですか」「ああ」 名刺交換のあと、話は来期の共同事業について移った。 私は少し後ろに下がり、内容を確認しながらメモを取る。「こちらとしては、年内に方向性だけでも決めたいと考えております」「年内というのは、契約条件までか。それとも基本合意までか」「できれば契約条件まで」「無理だな」 帝人さんは即答した。 相手の男性が苦笑する。「相変わらず厳しいですね」「厳しいんじゃない。必要な工程を飛ばす気がないだけだ」 帝人さんは資料へ視線を落とす。「これだけ関係会社があるなら、年内に条件を固めるには遅い。基本合意までなら検討できる」「では、その線で一度――」「小春」「はい」「年内で空いているのは」 私は予定を確認する。「基本合意の協議なら、十二月第二週までです。それ以降は海外案件と取締役会が重なります」「なら第二週までだ」 男性が私を見る。「倉橋さんでしたね」「はい」「皇社長の予定は、かなり厳しく管理されているんですね」「管理というより、増やさないようにしています」 つい本音が出た。 男性が笑う。「社長の
翌週の木曜日。 私は帝人さんと一緒に、都内のホテルで開かれる企業交流会へ来ていた。 皇グループの主要取引先や金融機関、関連企業の役員が集まる会だ。 今日は完全に仕事。 帝人さんもいつものスーツ姿で、会場へ入った瞬間から表情が変わっている。「皇社長、お久しぶりです」「先日の件ですが――」「来期の計画について、一度お時間を――」 次々に人が集まる。 帝人さんは相手の話を短時間で整理し、必要なものだけ答えていく。 私は少し後ろで、名刺や予定を確認しながら必要な情報を控えていた。「来月でしたら、第三週以降で調整できます」 そう伝えると、帝人さんが振り返る。「第四週は駄目だ」「海外出張ですね。では第三週で確認します」「ああ」 短いやり取り。 いつものことだ。 少なくとも、私たちにとっては。 しばらくして、ある企業の専務が新規事業の話を持ちかけてきた。「皇さんなら、かなり面白い案件だと思っていただけるはずです」 渡された簡単な資料に帝人さんが目を通す。「規模を広げすぎだ」「ですが、この市場なら先行者利益が――」「それを理由に初期投資をここまで増やす必要はない。需要予測も強気すぎる」 帝人さんは容赦がない。 相手もそれを承知しているのか、すぐに次の説明へ移った。「もちろん段階投資も検討しています。ただ、最初からある程度の規模を取らなければ――」 説明を聞きながら、私も資料を見た。 一つだけ気になる。「帝人さん」「何だ」「これ、初年度から全国展開する前提ですけど、地域を限定した場合の試算はないんですか?」 専務が私を見る。「限定展開、ですか」「はい。需要予測に幅があるなら、最初から全部取るより、地域ごとの反応を見てから広げる